80年代に入るとイタリア経済は回復して来たとはいえ、若者の失業率は依然と高く、テロ解決の道もほど遠くまた、イタリアの伝統的な大家族制も次第に核家族化しつつあり何かと不安定な社会でした。
(80年代前半は’第2のイタリア経済の奇蹟’といわれる好景気でしたが、後半ともなると財政赤字が増え景気は沈滞気味となるのです。)
そこへ押し寄せてきた英米ポップス、ロック、ディスコ・ミュージック、パンクなどの影響を受けて、英米へ進出したり、英語で歌う歌手も増えてきます。
代表はRAFで、彼は、ロンドンに行き,米国でもヒット・パレードの上位にランク。帰国後はロンドンでの体験を生かし、イタリア語の歌をつくりました。それは、今までのディスコ・ミュージックがすべて英語で意味がチンプンカンプンだった時、初めのて母国語によるテクノ的、かつ現代的な踊れる曲だったので若者におおいに受けました。
イタリア語は母音が多く語尾も母音で終わるのでロックに適さない(日本語も同じ)というハンディがあるのですが、次世代を築く歌手達はそれを乗り越えてゆきました。
たとえばエロス・ラマゾッティは、若者に的を絞った曲作りで’84のサンレモで"TerraPromessa”〈ヤング部門優勝〉”87”には"AdessoTu"〈ベテラン部門優勝〉を果たし、英語のみならず,
スペイン語盤はラテン地域(アメリカのヒスパニックや中南米諸国)で絶大な人気を博しています。
またジョヴァノッティはイタリア語のラップで新しい世界をひらきました。そしてブルースを目指すズッケロはアメリカで成功しイタリアに新しい音をもたらしました。
更に、この時代の傾向としてはビデオの普及によって、声、そのものよりも歌手のルックスが大事になった事でしょう。
ハンサムなRAF、エロス・ラマゾッティや美人のアンナ・オクサなどが人々の目を満足させてくれるようになり、またベテラン達も歌い続けている風土という事もあるのでしょうか(なんとジリオラ・チンクエッティは’85サンレモ3位入賞!)80年末頃には英米音楽に蚕食されていたイタリア音楽界にも再生の兆しが見えてきました。