50年代とサンレモ・・・・・・・・・・・カンツォーネとサンレモの関係は?



サンレモは、カンヌ、ニース、モナコのあるフランス国境から車で1時間のイタリアン ・リヴィエラ海岸のリゾート地です。  リグーリア州にあり 州都、ジェノヴァから急行電車で2時間弱。
花卉栽培がさかんで花の町として有名です。  
第2次世界大戦で負けたイタリアは戦後の復興を図るために、上記の南フランスの著名な観光地から観光客をカジノへ誘致しようと51年2月29日から、プロ歌手による 新曲コンテストをディナーショウに盛り込みました。
初回は、男女2人のソロ歌手と女性デュエットの4人が出場し、初優勝は, “グラツィエ・ デイ・フィオリ” を歌ったニラ・ピッツィでした。
この試みは、国営放送(RAI)で実況中継されたので2月という寒い季節の中、皆の心 を明るくし、娯楽に餓えていたヨーロッパ中の人々の関心を集めました。
翌年からは 参加する歌手も増え、同じ歌をダブル・キャストで歌ったり、会場のオペラ・デル・カジノ 劇場で予想富くじを売り始め、54年からは国内の16都市から選ばれた一般審査員に よる投票も行われるようになりました。
55年からはイタリア音楽協会も協力し、ヨーロッパ各国へ放送され、年毎に活況を呈して規模も大きくなりました。

★ これが今日まで続いている有名なサンレモ音楽祭の成り立ちです。
 
 58年の優勝曲であるドメニコ・モドゥーニョの“Nelblu,dipinto di blu” (いわゆる“ヴォラーレ”)はアメリカで外国人として最初のミリオン・セラーとなり、彼はグラミー賞第1回優勝者となったのでサンレモ音楽祭は世界中に知れ渡るようになりました。   
   (ちなみにこの曲は約50年後の今日でも人々に愛唱され、CMにもよく使われていますネ)
もともとカンツォーネはイタリア語で”歌” を指す単語なのですが、それは、サンレモを 母体としたこの頃のイタリア歌謡を指す1つのジャンルとなりました。
50年代も末になるとイタリアの好景気にも支えられて、この様なカンツォーネはテレビ もまだ無い戦後のイタリアの娯楽の定番となりました。 そしてヨーロッパや日米でも人気を博するようになるのです。
 
特に日本では、その ゆったりとした美しいメロディ・ーラインが好まれて、60年代から ブームとなり、特に ジリオラ・チンクエッティなどはヒットチャートを賑わせる程でしたし、彼女をはじめ、ミーナも、ミルヴァも日本語で歌ったものでした。 
そして日本でも先ずペギー葉山が”ラ・ノヴィア”(トニー・ダララ)を歌ってヒットとなって, 森山加代子、ザ・ピーナッツ、伊藤ゆかり, 弘田三枝子,布施明,藤木孝、などもイタリア語、日本語とりまぜて歌いましした。
 
50年代   サンレモの主な優勝者と曲名

   51ー1位ーNilla Pizzi /Grazie dei fiori     
   52−1位ーNilla Pizzi /Vola,colomba,
   53−1位ーCarla Boni-Flo Sandon's /Viale d'autunno
   54−1位ーGiorgio Consolini-Gino Latilla /Tutte le mamme
   55−1位ーTullio Pane-Claudio Villa/ Buongiorno Tristezza
   56−1位ーFranca Raimondi/Aprire le Finestre
   57−1位ーNunzio Gallo-Claudio Villa/ Corde della mia chitarra 
   58−1位ーDomenico Modugnio-Johnny Dorell
        / iNel blu, dipinto di blu Dorelli(ヴォラーレ)
   59−1位ーDomenico Modugno-Johnny Dorelli/ Piove...!  
                    

Domenico Modugno/resta cu mme



Gigliola Cinquetti/Canzone best star slbum on CD



Claudhio Villa



Nilla Pizzi